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安土城なぜなくなった?歴史から読み解いてみよう

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織田信長が築いたことで知られる安土城がある滋賀県近江八幡市は、歴史の息吹を今に伝える地です。かつては日本最高の木造建築として、圧倒的な存在感を放っていた天主を中心に、周囲の大名たちへの権威と富の象徴として機能していました。

現代の城郭において「天守」と呼ばれる部分は、この安土城においては「天主」と称されます。これには由来があり、「信長公記」を著した織田信長の家臣、太田牛一が天主と記していたためです。

もはや天主を目にすることはできませんが、国の特別史跡として認定されている安土城跡は、その価値ある歴史を求めて多くの人々が訪れます。さらに、「信長の館」ではかつての天主上部を実物大で再現した展示もあり、安土城を訪れた際には合わせて楽しむことがおすすめです。

それではここから、安土城の歴史やその魅力について、さらに深くご紹介してまいります。

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安土城の歴史

安土城築城にいたる織田信長の歩み

天下統一を果たすべく、織田信長が拠点を安土へ移してから建てた安土城の背景について、これから詳細を明らかにしていきます。

「桶狭間の戦い」での輝かしい戦勝から成り上がった信長は、美濃を手中に収めるため1567年に稲葉城を攻略し、「岐阜城」と名を変えました。その後も勢力を拡大し続け、翌1568年には尾張を完全に治めることに成功しました。

信長は場を上洛へと移し、足利義昭を擁立して力強く天下統一への道を歩み始めます。そして1570年、琵琶湖北部を支配していた浅井長政を「姉川の戦い」で破り、さらに大きな勢力をもたらしました。

室町幕府を滅ぼした1573年には、信長はその力を一気に広げ、見事な勢いを見せつけます。

このようにして権力の座を安定させた信長は、優秀な嫡男・信忠に家督および岐阜城主の地位を譲り渡す決断をします。そして、京都と北陸を結ぶ交通の要所であり、都にも近い安土の地に目をつけます。

その結果、信長は1576年に琵琶湖の東岸、安土山に城を築き始めるのです。これが知られる安土城の始まりです。

近代城郭の範例、安土城

丹羽長秀は、佐和山城主の肩書を持つまま、安土城築城の総奉行として指名を受けました。城の天守閣は建設開始から3年後の1579年に完工し、城全体が形を成したのは1581年のことです。しかしながら、織田信長とその子である織田信忠がこの世を去る本能寺の変が1582年に発生し、織田家の運命も大きく変わります。一時は織田氏の主城として安土城が存続しましたが、やがて未解明の火災により主要建築物を損なうこととなります。

1585年に至り、安土城は遂に廃城の憂き目を見ますが、それ以前に豊臣秀吉が新たな拠点として八幡山城の建設を決意。安土城の居館や城下町も八幡山城へと移されました。

安土城はわずか十年で姿を消しましたが、現在の城郭にとって初期の手本となった城でもあります。大坂城を筆頭に、江戸時代に築かれた多くの城に影響を与えたのです。

安土城の特徴とその魅力

織田信長が築いた安土城には、従来の城郭にはみられなかった多くのユニークな特徴が存在しました。特にその象徴ともいえるのが、堂々たる天守(天主)です。日本における最初の真剣な天守を備えた城として知られる安土城は、それに留まらずさまざまな魅力で歴史に名を残しています。ここでは、その天守をはじめとした安土城のさまざまな特色について詳細に解説してまいります。

華麗なる安土城の天主

安土城の特徴の一つに、これまでの城には見られない壮麗さを持つ天主があります。この天主は通常、城の要となる建築物であり、緊急時以外に使用されることは稀ですが、織田信長はこの天主に居を構えていたとされています。その構造は「望楼型」と呼ばれる独特なスタイルで、上層と下層で異なる様式を持ち、首座造りの下に物見櫓を設置したデザインが特徴です。この設計は、その後に建設される多くの近代城郭に影響を及ぼしたと言われています。

安土城の天主は5層7階建て(地上6階と地下1階)であり、八角形にデザインされた望楼には金箔があしらわれた瓦が用いられていました。さらに、最も高い位置にある6階には狩野永徳の手による豪華な金碧障壁画が飾られていたと伝えられます。

5階の部分では、法隆寺夢殿を彷彿とさせるような全面朱塗りの壮麗な装飾がなされており、さらにその階は地下1階から続く吹き抜けの構造となっていて、茶室なども設けられていたといいます。下層部は黒漆塗りで仕上げられていました。

この外観は5層7階という構造で、当時の宣教師ルイス・フロイスもヨーロッパには類を見ないものと述べるほどの驚きを持って伝えられているそうです。

しかし、この華やかで堂々たる安土城も、1582年に本能寺の変が起こった後に未解明な大火によって焼失し、それ以後再建されることはなかったのです。

安土城の繊細な縄張り

海抜199メートルの頂に構えられた山城である安土城。その頂上部には、主として天主と呼ばれる建物や本丸、加えて二の丸と三の丸が配置され、自然地形を巧みに取り入れた縄張りで設計されています。

山麓から主塔である天主を目指し、ほぼ180メートルにわたって直線的に延びる大通路は、広々とした石段で形成されており、この規模のものは他の城では珍しい見応えがあります。

さらに、山肌に沿うように複雑に曲がりくねった道があり、このような入念な設計は地形を利用した防御戦略の一端を垣間見ることができます。

城の核となるエリアへと誘う黒金門跡の周囲には、特に大きな石が使われており、防衛上の重要さを物語っています。

枢要な虎口を過ぎると、左右に分かれる道があり、ここでも侵攻者が攻め入るのを難しくするための仕組みが施されています。

穴太衆:伝説の石工集団の腕前

安土城の総石垣造りは、山をまるごと要塞化する斬新な手法が特徴です。本記事では、その堅固な石垣を築き上げた職人たちの技についてご紹介します。安土城の天主台の石垣は、9メートルの高さがあり、そこには32メートルもの巨大な天主が建てられていたと言われています。このように強固な石垣を構築するためには非常に高度な技術が不可欠でした。

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安土城の石垣建築に関わったのは、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる熟練した石工の集団です。穴太衆が示した技術の妙は、単に自然石を積むだけでなく、それを使って非常に堅牢な石垣を作り出した点にあります。石垣が崩れることなく維持されるためには、角の部分、すなわち隅が重要な役割を担っているのです。

穴太衆は、石垣の角の部分をより強固にするため、「算木積み」という巧みな技術を確立しました。さらにこの技法は安土城で積極的に採用されています。算木積みは、石材の長辺と短辺を交互に配することで、構造全体の強度を高める方法です。穴太衆が手掛けたこの総石垣建築は、後世の城郭建築に大きな影響を及ぼし、安土城は日本の城郭史における一つの画期的な出発点となったのです。

なお、穴太衆による石工技術は、後の多くの城郭建築においても活かされていくこととなりました。

家臣の居住区としての安土城麓の発掘成果

最新の発掘調査の結果、安土城の周囲には家臣たちの住居が建ち並んでいたことが判明しました。これらの屋敷は、城へのメインルートである大手道沿いに位置しており、当時の豪族である豊臣秀吉や前田利家が宿泊したとされる屋敷跡も確認されています。

また、調査によって土器や陶磁器が多数見つかり、日常的な生活の場でもあったことが窺えます。かつては書院造りの建物を中心に様々な施設が建立されていたことが推測されますが、今はそれらの痕跡はほとんど消え、わずかに基礎石や石垣が残されるのみです。

安土山の中腹に位置する織田信長の息子、信忠や、武井夕庵、森成利、織田信澄といった重臣の屋敷跡には石碑が建てられています。これらは、城の主である織田信長の居城である山頂部の天守を守る目的で配されたものと考えられ、安土城が単なる居城でなく、戦略的な防衛施設の一環として機能していたことがうかがえます。

安土城跡の現状

安土城跡は、安土山全体に広がり、JR安土駅から歩いて約25分の場所に位置しています。この史跡は大正15年(1926年)に国の史跡として登録され、その後もたびたび復旧や復元が行われてきました。山麓から頂上にある本丸へ続く大手道は、平成元年(1989年)に再現されたほか、昭和27年(1952年)には特別史跡にも指定されており、その価値は非常に高く評価されています。

かつて石垣や建物で構成されていた安土城ですが、現在はその建築物は残されていません。にもかかわらず、立派な石垣や石段が現存しており、これらから織田信長が築いた安土城の大規模な様式を今に伝えています。城内には織田信長公本廟が残り、豊臣秀吉によって埋葬された武具などが納められています。

安土城が築かれた当時に建立された摠見寺のうち、二王門や三重塔を除く多くの建物は失われてしまったものの、現在は仮本堂が建てられています。これは昭和8年(1933年)に宮内庁より譲り受けた京都御所の一部を用いて織田信長公の350回忌を記念して建てられたものです。特別拝観が不定期に行われており、参拝後にはお抹茶をいただくことができる貴重な体験が提供されています。

また、安土城跡近くには「信長の館」があり、安土城天主の5階、6階が原寸大で復元された展示があります。外観の金色と朱色の華麗さや内部の金壁障壁画など、非常に見応えのある展示となっています。

JR安土駅前には城郭資料館があり、20分の1サイズの安土城模型が展示されている他、ローマ宣教師から献上されたと伝えられるローマコーヒーを味わうことが可能です。安土城跡を訪れた際には、これらの施設も併せて訪れることをお勧めします。

安土城のボランティアガイドについて

当記事では、歴史ある安土城を訪れる際のボランティアガイドについての情報をお伝えしています。

英語対応可能!安土城ボランティアガイドの魅力

安土城跡を深く知ることができるボランティアガイドが、安土町観光ボランティアガイド協会によって提供されています。ガイドは城郭資料館や考古博物館など、歴史深い安土城周辺を案内してくれるので、織田信長の歴史を学ぶ絶好の機会です。

安土町内にある様々な観光スポット、例えば歴史的な旧伊庭家住宅を含む、希望に応じたコースを選択することができます。さらに、複数のスポットを組み合わせてオリジナルのコースを作成することも可能です。

ガイドの申し込みを検討する際には、提供される申込書に記載されている各観光地の所要時間を参考にして、一日の計画を立てると良いでしょう。団体での利用の場合、20名の観光客につきガイドは1名が目安ですので注意が必要です。

英語によるガイドも提供しているため、外国人観光客や英語を話す方にもおすすめです。ガイドを利用するには、利用予定日の1週間前までに予約をする必要があるのでご注意ください。通常は年末年始を除き、9時から17時まで利用でき、2名以上からのサービスとなっています。

費用は、個人一人当たり1,000円で設定されており、午前と午後にまたがっての予約では2,000円となります。食事が必要な場合は、事前に手配するか追加で1,000円を支払う必要があります。

申し込みは、安土町観光ボランティアガイドのウェブサイトから行える申込書を使用して、郵送またはFAXにより行います。夫婦や家族、友人たちとの観光に、このガイドを活用することをお勧めします。

全国の日本の城に興味のある方は、是非参考にしてください。

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